ワールドメイト創始以前

    ワールドメイトの創始以前の宗教活動等を、書籍等の資料に基づいて検証したいと思います。

生涯の師との出会い

    ワールドメイトのはじまりは、リーダー深見東州氏と生涯の師となる植松愛子氏との、運命的としか表現しようのない出会いから始まるという見方もあると思います。
    深見氏も植松氏も、それぞれが別々に神示を受け、数年間の間、いつの日か来るであろう預言の相手を待っていたといいます。
    そして、いざ植松氏が神示の漢詩を披露する際に、深見氏こそが待ち望んでいた人物であったと確信するのです。
    植松氏は、神から授かった神法を「その青年に伝えれば全てやってくれる」と聞いていたといいます。
    これは、深見東州氏25歳の出来事でありました。

深見東州と植松愛子の出会い

    植松愛子への神託と笛吹き童子

  • 磯崎史郎『深見青山 その天才の秘密を探る』より引用
  • 晴久の猛烈な求道が六ヶ月続いた時、根本は晴久にこう言った。
    「もう私からあなたに教えるものは何もない。今度は、私があなたから教えられる番だ。山岡鉄舟を指導した滝川禅師が、鉄舟を指導する前と後では禅境が著しく激変したように、私もあなたを指導して大いに高められた気がする。君は『任天の導師』となる人に相違ない」
    弘法大師がわずか六ヶ月で恵果阿闍梨から真言の法を継承し、八祖となった話に似ている。
    そして、そう言われて十日後に晴久は、植松愛子と運命的な出会いをする。その仲介をしたのが、道院における師・根本宏であった。


  • 大原一浩『なぜ、人は神を求めるのか』より引用
  • 昭和51年の12月23日、当時の日、植松愛子にすの神からの神託があった。
    「天のとき来たれり、急げ」
    といわれても、どう急げばいいのか分からない植松愛子だった。
    ところが、知人をつれて伊豆山に行ったとき、北極神界の神が降り、その神が漢詩の神示を与え、「笛吹き童子がやってくる」と告げた。この現代に「笛吹き童子」がやって来るとは…。
    こうして、その年は暮れた。
    翌昭和52年1月5日、植松愛子は知人をつれて都内の『紅卍字会』を訪れた。その席で根本宏の脇にすわっている青年と出会った。
    根本に言わせると、「古今東西、稀に見る神霊家である」という。
    その青年に関心を持った植松愛子は、後日、再会することを約束した。
    再び根本宏と会った時、植松は自分の心境を託した御神示の漢詩を披露しようとした。と、青年が、「では、私が伴奏をしましょう」と言い、鞄を開けた。
    鞄の仲から取り出した物を見たとき、植松愛子はあやうく声を発しそうになった。青年の手には、竹の横笛があったのである。すの神が預言されたのは、この青年のことであったと思い当たったのだ。
    植松愛子が詩を歌う。青年の横笛から流れる清澄なメロディが、時には詩に従い、時には詩を導くように流れる。
    歌い終わった植松愛子に、青年は半田晴久と名乗った。
    晴久は、学生時代から能管の笛を習って吹いていた。
    就職してからも、折をみて笛を習って吹いていたところから、会社で「笛吹き童子」と仇名をつけられた。
    童顔でスリムであった当時、「童子」という言葉は似合った。なぜ笛を吹いていたのだろうか。
    「御神業と思っていたからです。やめようと思った時もありましたが、その都度『ご神業だと思って続けなさい』という神の声が聞こえてきたものです」
    植松愛子と深見東州は、劇的な出会いの後、お互いを審神しつつ、双方の役割を模索していく。
    深見東州は、古今東西の宗教や、神霊世界をあまねく研究し尽くした。一方、植松愛子は神の啓示の受け手として、天界の仕組みをより実感として得てきた。
    つまり、植松愛子がアンテナであるのに対し、深見東州はアンテナから得た情報を解読し知らしめるにふさわしい特質を持っているということになる。
    出会い以後、今日まで、その関係は終始変わらない。

    植松愛子のもとで悟後の修行を始める

  • 磯崎史郎『深見青山 その天才の秘密を探る』より引用
  • 当時のことを深見東州は、苦笑いを浮かべながら語る。
    「私の人生を振り返れば、五歳の頃に霊的体験をし、10歳頃に世界救世教で宗教的雰囲気を知り、15歳で人類救済の発願をし、さらに大本教で、いわゆる宗教狂いではなく、真剣に宗教に取り組むこと、また霊界に関する知識を得、徹底して生活に活かす実践を行いました。そして25歳の時、道院紅卍字会で天地の法と理、学問と宗教の接点の基本を学んだのです。
    わずか25歳で、よくぞここまでという気持ちを持ったし、何十人という霊能者と立ち合って不敗を誇り、誰にも負けない悟りを開いたというプライドもありました。ところが植松先生に、自分の築いてきたものをすべて否定されてしまいましてね。なにも持たず、知らず、生活からでた師にのポイントしか指摘しない人には、とうてい勝てませんでした。正受老人にヘコまされた白陰禅師の若かりし頃と全く同じでした」
    悟後の修行という言葉がある。宗教的な悟りを開いても、それだけでは悟りは定着しない。社会に帰り、日常の生活を行う中で悟りを実践することを悟後の修行という。この修行をおろそかにすれば、悟りは浅く、未熟なままに終わってしまうのだ。

※文中の名称は、「ワールドメイト」「深見東州(半田晴久)」「植松愛子」に統一しております。

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