深見東州の修業時代

    ワールドメイトのリーダー(教祖)である、深見東州。本名半田晴久。宗教の枠にとらわれない多芸多才な活動は、各界のリーダーにも一目置かれているところであります。

    深見東州は、なぜ、各方面で精力的な活動を続けているのか、その秘密を書籍等の資料に基づいて検証したいと思います。

    "この人の頭の構造とエネルギー構造は、一体どうなっているのか。誰もが呆然とするところである。"(以上、磯崎史郎『深見青山 その天才の秘密を探る』より引用)

深見東州の生い立ち

    深見東州氏は、もと日本一の酒樽屋にまでなった家系の七代目であったとのこと。ときおり、深見氏の名誉を貶めたい若干の人々が、深見氏を「在日」「チョン」などと差別的発言によって揶揄していることがありますが、これはまるきりのデタラメであることがわかります。 出生も特に秘密にもされておらず、家柄も、上流とはいわないまでも、中流階級の上層あたりであったことは推察されます。

    日本文化に広く精通していながら、かつ欧米や広く海外でも評価されている、深見東州氏のグローバルな文化性は、独特の異国情緒あふれる神戸や優雅な芦屋にほど近い西宮という地域で、幼少の頃から自然と育まれていたものかもしれません。

    また、深見東州氏は、子供の頃から希に見る素直な子であったといいます。ワールドメイトでは「素朴で素直が神一厘」という教えがありますが、神一厘の素質を備えていた子であったということが言えるでしょう。

兵庫県西宮市で生まれる

    日本一の酒樽屋長男として生まれるも、空襲で工場が灰燼を帰してしまう

  • 磯崎史郎『深見青山 その天才の秘密を探る』より引用
  • 通常、宗教団体の頂点に立つものは、その出生を神秘化しようとするものだが、深見東州が語る生い立ちは、際立って神秘的でも、よりすぐれた人のそれでもない。

    深見東州、本名半田晴久は、昭和26年3月18日、父、半田利晴、母志保子の長男として兵庫県西宮市に生まれる。

    半田家は代々酒樽製造業を営んでおり、全盛期には、酒造りの本場灘五郷に樽を一手に卸していた日本一の酒樽屋だったといわれる。


  • 大原一浩『なぜ、人は神を求めるのか』より引用
  • 復員した利晴は、帰郷して志保子と結婚。しかし、家業の家屋敷・工場などは、空襲でことごとく灰燼に帰していたのである。そこで止むなく大学進学を志し、首席で関西学院大学に入学した。在学中には左翼思想に傾倒、自治会委員長として学生運動の先頭に立った。

    深見東州が生まれたのはこの時期である。
    西宮の旧家のしきたりとして、西宮神社にお宮参りした東州が物心ついたとき、家庭内はすさみ切っていた。
    父・利晴は、その活動歴と、妻子持ちであることが災いし、一般企業への就職を拒まれ、右翼政治家の秘書となったが、まもなく右翼活動にも絶望して職を辞した。特攻くずれ、左翼運動、右翼活動と、右に左に揺れる魂の彷徨が、彼の心の傷を深くしていったのだろうと、今、深見東州は振り返る。

神仏に祈る日々を送り、希に見る素直な性質を持つ少年

    神仏に祈る日々を過ごす少年時代の東州に芽生えた理念

  • 大原一浩『なぜ、人は神を求めるのか』より引用
  • 東州は、部屋の隅に隠れ、繰り返される父母の争いをうかがう毎日を過ごしていた。そのときは、つねに「母を助けたまえ」と、神仏に祈り続けていたらしい。

    母・志保子は、連日の家庭争議から逃れようと、近隣に住む『世界救世教』の信徒に救いを求め、「お手かざし」「浄霊」を受けるようになる。母親につきしたがった晴久は、このとき初めて、宗教的雰囲気の中で心の解放感を味わったという。

    この頃の晴久の日記に、次のような一文が認められた。

    「過去の偉人たちは、みな人類のために大いなる遺産を残そうと思って頑張った。今の偉人たちもそうだ。とすれば、いずれこの世に偉人たちの遺産が積み上げられ、理想の社会が出現するにちがいない。」

    ワールドメイトの究極の目的は、理想社会の形成である。その理念は少年時代の東州の中に芽生えたといってよい。

    希に見る素直な性質により成績が躍進

  • 磯崎史郎『深見青山 その天才の秘密を探る』より引用
  • 一方、学業の面では、家からなるべく離れていたいので、毎日毎日トンボとり、魚とり、雀打ち、カエルとり、コウモリとり、忍者の真似などに夢中になっていたから、決して褒められた成績ではなかった。志望高校選定にあっては、担任の先生から「キミが合格するなら、全員が合格するよ」という、お墨付きを貰った体たらくだったのだ。

    ところが、晴久少年は、これを励ましの言葉と受け取った。みなが合格するためには、自分が受からなけりゃいけないと考えたのである。ドン底に近い成績がたちまち、上の下ぐらいまで躍進し、母親は「お宅のお子さんは、希に見る素直な子ですね。教師生活二〇年で初めて見ましたよ」と妙な褒められ方をした。

深見東州の信仰心の芽生えと確立

    深見東州氏は、ワールドメイト創始前に、『世界救世教』、『大本教』、『道院紅卍字会』にて、10年間にわたり、宗教の基礎を学んだそうです。 これに対し、まるで、「さも問題があったから宗教遍歴を重ねた」とでも言わんばかりに、遍歴を強調して中傷する若干の無理解な人がいますが、真相はまるで異なるようです。

    深見氏によると、宗教にはそれぞれ役割があるそうです。受け取る人のレベルによってそれぞれに合う教えを学べるように、多種多様な教えや宗教がこの世に存在するといいます。

    15歳からの初期の10年間の修行は、深見氏が、古今東西あらゆる宗教の教典を読破し、エッセンスを吸収するために、必要な経験だったようです。 その経験があったからこそ、すの神様から直接降ろされた、これまでに全く存在しない一厘の教えを、植松愛子氏より伝授されることが可能だったのです。
    これは、15歳で神の道を志して人類救済を発願し、25歳にて霊界の真相を究めてこの世に出ているあらゆる神の教えを学び尽くした深見氏であったからこそ、成し遂げられた偉業であると思います。

    深見氏は、『世界救世教』に入信した日、早速、なにかの「証」としか考えられない神秘体験を経験しています。そして、学生部を結成するなどの、いち末端奉仕者としての精力的活動が教会長の目にとまり、直々に指導をしてもらったそうです。
    『救世教』の頃の深見氏は、いち末端奉仕者として、最も基本的な「体施」すなわち実践によって、本物の信仰を完全に体得したと言えそうです。
    ワールドメイトでは、「口、心、行い」が一致していて、初めて真心ある行いと評価されますが、深見氏は、『救世教』での修行時代に、こうした「言・念・行」が常に一致し、真心の状態から一切揺れ動くことのない境地に達していたものと思われます。

    さらに深見氏は、客観的な目を養うことによって家庭の葛藤を乗り越え、「我を捨てる」ということを初めとする、信仰者にとって最も難しく必須な信仰態度を習得し、人間的にも成長を果たしたのです。
    『救世教』との出会いによって、信仰への入り口に一歩踏み出し、本物の信仰力が身につけたということは、『大本教』屈指のシャーマン・松本マツ子さんに初めて出会ったときに、「こんなに若いのに、本当の信仰を体得されています」と評されたことからも明らかであると言えます。

世界救世教で得た悟り

    宗教的奇跡と父の改心

  • 大原一浩『なぜ、人は神を求めるのか』より引用
  • 高校への進学を前に、東州は正式に『世界救世教』に入信した。

    県立鳴尾高校に入学した後、彼は宗教的奇跡を体験する。『救世教』のお守りである「お光り」を教会から授かった彼は、嬉々として胸にかけ、家路に向かったが、翌日、胸に激痛を覚え、教会へ駆け込んだ。長方形のお守りをはずして見ると、その影の部分になっていた胸の皮膚が、火傷を負ったように長方形に赤く腫れ上がっていた。教会の幹部たちは、東州の胸に目をやり、嘆息する他はなかった。何かの証であるにちがいないが、それが何であるかを見極めることができなかったのだ。

    『救世教』支部にあっては、学生部を結成し、信徒を募る一方、学校では生徒会活動を通じて心の通い合う友人たちを獲得していったから、やがて、彼の活動ぶりは支部の上部機関である教会の知るところとなり、教会長は、晴久を教会所属に加えた。その時の教会長の言葉を、彼は今も覚えている。

    「神様のための活動もいいですが、日頃の生活が基本です。キミには、お父さんとの葛藤があるようだけれど、まず自分の家庭を立て直すことを考えてごらんなさい。」


  • 磯崎史郎『深見青山 その天才の秘密を探る』より引用
  • 家庭が正しく存在した上での世直しであり、人類の救済であることを指摘された晴久少年は、以後、父親利晴に反抗しなくなった。

    我が子の変貌ぶりに驚いた利晴は、
    「最近、人間が変わったみたいだなあ」
    「いや、変わっていない」
    「確かに変わった」
    押し問答の末、
    「実は救世教の教会長に言われて反省した」
    と晴久が口にすると、利晴は驚き、
    「そういう立派な宗教もあったのか。俺も入りたい。」
    と、翌日、さっさと入信してしまったのである。
    かくて、半田家は父母そして長男晴久が、救世教の教えに従うことになった。

霊界の真相を知り、生活に活かす実践を送る日々

    深見氏は『大本教』との出会いによって、『救世教』ではわからなかった疑問の数々をことごとく解決することとなります。
    『大本』には、出口王仁三郎が残した大著『霊界物語』全81巻83冊と、出口ナオが半紙約一万巻二十万枚に記したお筆先を収録した『大本神諭』等が残されています。
    深見氏は、『霊界物語』全巻を2クール読み、『瑞能神歌』等の発禁により入手不可となった教典等についても、全部読破したそうです。『大本』のおかげで、『救世教』では知りえなかった、本質的な神学びが出来たのです。

    また、深見氏は、開祖教祖が直々に残した原典にあたることにより、霊界に関する知識を得、いっそう真剣に宗教に取り組むようになったと言います。

    さらに深見氏は、徹底して生活に活かす実践を行っています。そうして、『大本』の時代に、戦後に出てきた世直し教団から出口王仁三郎にバトンタッチされたあらゆる教えは、深見東州氏に継承され、多くの会員を教化育成していくための道しるべとなったり、また、正しい方向性であることを示唆する証となったりしているそうです。

大本教でさらに宗教的研鑽を積む日々

    大本教宣伝師の除霊による母の病気治癒

  • 磯崎史郎『深見青山 その天才の秘密を探る』より引用
  • 世界救世教の活動を五年ほど続けた時、母親が床に伏した。医者は「どこといって悪いところはない」と言うが、枕から頭が上がらない。
    どうもこれは、医者の範疇ではないのではないかという人のアドバイスもあり、大本教の宣伝師のもとに出向き「お取り次ぎ」をしてもらった。
    お取り次ぎとは神徳を取り次ぐことだが、その結果「水子霊がとりついている」ということで、除霊を受けるとたちまち病状が好転した。

    大本屈指のシャーマン松本マツ子さんとの出会い

  • 大原一浩『なぜ、人は神を求めるのか』より引用
  • 後日、母親は病気全快を謝すために、その宣伝師の師匠にあたる松本マツ子の元に行く。
    大本教教祖の出口王仁三郎、二代目教主出口すみ、三代目教主直日の夫である神仙の人出口日出麿の三代に仕え、全国をともに布教して歩いた大本屈指のシャーマンとしてつとに知られる松本は、一八歳の時失明し、思い煩った揚げ句、産土様(生まれた土地の守護神)に二一日間、参拝、祈願した。満願となるべき日の丑三つどき、彼女は、「このまま目が見えなければ、周囲の者に迷惑をかけるから、死んでしまおう」と最後の祈りを捧げていると、パチンとはじめるような音がし、社の扉の鍵が壊れて、神が降りられた。
    「お前は前世の業が祟り、目が見えなくなったのだ。しかし、神のために生きようとするのなら助けてやろう」
    松本の視界が暗黒からセピア色に変わり、物の影が僅かながら黄色く認識できるようになった。「できればもっと明るく」と彼女は願った。そうすると、また見えなくなった。そこで反省する。欲を出せば神の機嫌を損ね、再び暗黒の世界に突き落とされる。たとえ僅かでも見えることに感謝をせねばと彼女が祈り続けると、この心根が神を動かし、たちまち視界は正常に帰したというのである。
    このような宗教的経験を信じようと信じまいと自由である。しかし、晴久少年は、松本マツ子の知遇を得て、宗教的な開眼を果たしたといってよい。 松本マツ子は、出口日出麿に従い全国で布教活動を行っていたが、まもなく出口直日三代目教主に、神戸地区に留まり、布教することを命じられた。なぜ神戸地区を受け持つことになったのか。松本自身は分からなかったが、晴久少年にすれば、彼女の存在によって人生の大きな転機を迎えたのである。

    大本教の大著をことごとく読破し、救世教の疑問点をつぎつぎ解決

    ≈当時、彼は世界救世教の教えに対して少なからず疑問を抱くようになっていた。肝心なことになると、明解な回答を与えてくれないのである。教典とされるものも、一週間もあれば理解できる程度の薄っぺらなものである。逆に簡単であるからこそ、よく社会に浸透していくのかもしれないが、当時の深見東州には、そうは思えなかった。

    そんな時に、大本教に出会った。こちらには、出口王仁三郎が著した全八三巻の『霊界物語』がある。出口なお教祖の『お筆先』も、読みごたえがあるし、読めば読むほどひきこまれる魅力を感じる。

    考えてみれば、世界救世教は大本教を母体として派生した教団であるから、本家ほどしっかりとした教義が確立されていないのは当然といえば当然のことなのだ。
    晴久少年は『霊界物語』『お筆先』を読みふける一方、松本マツ子を訪れ、自らの疑問をぶつけ、また彼女に大本教の教えを正しい信仰姿勢を乞うた。
    彼が、初めて松本マツ子に会った日、世界救世教における聖地参拝について話すと、松本は涙ぐみながら聞き、 「その心がけは本物の信仰心と、神様というものを真に理解されている証拠です。こんなに若いのに、本当の信仰を体得されています」 と言う。 この限りでは、単なる会話にすぎないが、松本の背後にある神棚から、パチンパチンと柏手を打つような強い音が鳴り響く。ギョッとして身を固くする晴久少年に、松本はこう言った。 「神様が大変喜んでいられるのです」

    出口王仁三郎が牢につながれているとき、結婚前の宮崎マツ(松本マツ子)を牢に呼び、
    「六大都市は、すべて空襲で焼かれる。大本信者は皆、即刻疎開するように知らせよ」
    と命じた。この三代にわたって得た松本マツ子の筋金入りの信仰姿勢は、晴久少年によって発展継承されているといえるだろう。今でも、深見東州は、松本マツ子の報恩に深く感謝していると聞く。


  • 磯崎史郎『深見青山 その天才の秘密を探る』より引用
  • 晴久は、『霊界物語』についての疑問を尋ね、さらに自分自身の信仰活動に対する批評を乞うた。
    松本は、晴久の勉強ぶり、そして宗教に対するまごころと捨身の姿勢を大いに認めたが、その時、彼女の背後にある神棚から、パチーンという柏手を打つような音が聞こえた。驚愕する晴久に対し、松本は、
    「神様も、あなたに賛辞を送られているのです」
    と告げた。

信仰の道を選んだ深見東州に神霊能力が発言

    同志社大時代、400人の部員が所属するESSで、日夜改革に没頭する深見東州氏は、たびたび神がかりを体験するようになったと言います。
    深見氏は、何もないところから、そうした体験を積み重ね、試行錯誤するうちに、絶対、神に祈りがとおる法則というものを、ついに体得します。
    ワールドメイトで、会員となると、まず教えを受ける『神法悟得会入門篇』と呼ばれる極意は、深見氏が大学生のときに体得した法がもとになっているといいます。

    もちろん、無形の法を伝授するために、誰にでもわかるような易しいことばにより体系づけるまでには、それ相応の期間が必要だったことでしょう。 しかし、神に祈りが通る無形の法を、生活実践を通して独力で体得したのが、学生時代であったことと思います。
    その他、六大神通力のうち、主な神霊能力が発現していく時代が、同志社大時代であったと言えるでしょう。

同志社大学経済学部へ進学

    大学生活において、神霊能力が顕現していく

  • 磯崎史郎『深見青山 その天才の秘密を探る』より引用
  • 深見東州と大本教とのつながりは、高校卒業後から大学卒業後のしばらくの間まで五年に及ぶ。
    その間、彼は同志社大学に進学するが、いわゆる神霊能力が具体的に顕現したのがこの頃からだという。
    「松本マツ子さんのもとで大本教の活動を続けていましたが、宗教的理念と愛情と祈りを持って常にベストを尽くして来たつもりです。
    その過程で、彼はしばしば神がかった状態になる。このような時には、他人の未来や心がすべて透視できるのだという。
    大学四年の頃には、彼の超能力ぶりが学内で噂になり、学生が彼のもとに身の上相談に殺到した。
    「四〇〇人の部員を率いるESS(英会話クラブ)の部長をやった後、同志社の付属女子高校のESSのコーチも引き受けましてね。全国英語弁論コンクールに出場する子にレッスンしながら、『キミは優勝するよ』『キミは三位に入れる』『キミは、まあ五位だな』と予想したところ、その通りの結果になりました」
    同志社女子高校のESSは、優勝を争うにはほど遠い実力であったが、この年だけは異常な当たり年であった。深見東州は、海外でのパーティーやレセプションの際、英語で堂々とユーモアあふれるスピーチをするほどであるから、指導方法も適切であったに違いないが、それにしても、衆目を驚愕させる直感力、予知能力といえよう。

宗教と学問を究め、卓越した神霊能力が完成するまで

    『救世教』にて、いち奉仕者として本物の信仰を身につけ、さらに『大本』にて霊界に関する法を継承した深見氏は、『道院紅卍字会』にて、世界中の古今東西あらゆる宗教の教典を読破して、学問としての宗教をも究めることとなります。
    深見氏は、『道院紅卍字会』にて、諸聖賢との邂逅を果たします。さらに、わずか半年で、古今東西あらゆる教典を読破し、『道院』随一の碩学と名高い根本宏氏より、あらゆる知識を学び極めます。 日本全国のあらゆる神霊家、霊能者を正確に審神し、深見氏を超える神霊能力をもつ者はいなかったと言います。そして、ついに、『道院』の扶拈において神の啓示を受け取るのです。

    北極神界にます至聖先天老祖から『道院』の扶拈に直接に降ろされた教えが、『太乙北極真経』や『午集正経(太乙正経午集)』に記されています。
    この『太乙北極真経』や『午集正経(太乙正経午集)』は、極めて霊験微妙な書物であるそうです。微妙繊細な神宿る書物の読解は、九分九厘まで神にそっくりな魔物が来る可能性があるので、それを正確に審神できないと、道を踏み外してしまう危険性もあり、正しい審神者なしでの読解はお勧めできません。
    本文は、中国語の漢文で記されており、漢詩文のような体裁をなしていて、頭で理解することを超えた最高度に難解な書物であるそうです。 深見氏は、和訳も解説文もない『太乙北極真経』や『午集正経(太乙正経午集)』を、根本氏とともにお互いを審神しつつ訓文を読み解いたそうです。

    そうして、半年あまりで、あらゆる宗教、修法、呪術、占術等のエッセンスである難解高度な教えについても習得し尽くし、根本氏に、「あなたに教えることはもうありません」と言わしめる段階まで宗教的人格が完成したと言えます。
    『道院』で吸収した教えは、弭化の法としてワールドメイトに継承され、深見氏が、誰にでもわかりやすいようにかみ砕き、まったく危険のないようにした上で、会員に伝授されています。
    中途半端に勉強して途中で去った霊能者と違い、深見氏は、現在、『道院』の常任理事と名誉会長を兼務しています。 これは、老祖様諸聖賢、神仙仏に対する報恩と、忠誠の誠を貫かれているためであるそうです。

    深見氏の10年の修業時代とは、これまで世にあらわれたあらゆる既存の高度な教えを、試行錯誤をしつつ実践し、体得する段階であったということが言えましょう。
    それは、この後、初めて世に顕現した「す」の神様からの教えを理解し、吸収できるようになるための礎を確立するための、基礎体力づくりという位置づけであるのだと思います。

建設会社に就職し、『道院紅卍字会』にて神の啓示を受ける

    道院紅卍字会にてさらなる研鑽を

  • 大原一浩『なぜ、人は神を求めるのか』より引用
  • 同志社大学を卒業した晴久は、東京の建設会社に就職する一方、勤務が終わると、当時銀座の一角にあった『道院紅卍字会』の事務所に立ち寄った。
    『紅卍字会』は、中国渡来の宗教であるが、エスペラント語の普及など、広く世界に視野を広げた『大本教』ときわめて密接な関係を保っていた。

    『紅卍字会』で生涯神の道を選ぶことを決意

  • 磯崎史郎『深見青山 その天才の秘密を探る』より引用
  • 晴久が初めて『紅卍字会』を訪れたとき、生まれてはじめて瞑目静坐した途端、次々に聖賢、菩薩の霊が降臨し、驚きと感動で茫然自失となった。しかし、間もなく冷静さを取り戻し、一つ一つの神霊を正確に審神して、事務長・根本宏に告げた。審神とは神の眼によって、その霊能力の真贋を確かめることである。その正確さと、神霊感能力の冴えに、根本も舌を巻いた。
    その頃の『紅卍字会』の事務所は、さながら霊能家、神霊家、超能力者のサロンと化していた。
    全国各地から集まり、お互いの能力のレベルを競い合っていたのである。
    晴久は、それらの人々と交わりつつも、彼らの能力を審神していた。
    彼の審神の前に、『紅卍字会』に通いつめていたすべての霊能者、霊能力者は敗れ去り、半田晴久の名は、一躍轟き渡ったといわれる。
    その頃、彼は神の声を聞いた。神が語りかけたのである。
    「汝は神の道を選ぶのか。現世での仕事の道を選ぶのか」
    晴久は、
    「神の道です」
    と、即答した。
    「ならば、『紅卍字会』にあって研鑽に励め。まもなく、ある人物が汝を迎えに来る。その者に従い進むことが、汝の終生の仕事となるはずだ」
    この神託に奮い起った晴久は、ひたすら中国の古典を繙き、あらゆる宗教の原典への知識を養っていった。

『道院紅卍字会』にて、あらゆる教えを吸収するまで

    道院随一の碩学からわずか半年ですべてを伝授される

  • 磯崎史郎『深見青山 その天才の秘密を探る』より引用
  • 神託を受けた晴久は、ギリギリまで仕事の時間を圧縮して、さらに中国の古書と宗教関係の書物の研究に精力を注ぎ込んでいった。
    その時の師となったのが根本宏という人物である。国士舘大学教授に招聘されたにもかかわらず、頑固に断り、道のために生きて道院に奉職していた、道院随一の碩学であったという。
    その根本と晴久は、会えば、道の話、古典の真解の話となり、「誠」一字に三日間議論し、「和」や「敬」という一文字で七時間も八時間も話が続く仲となった。


  • 大原一浩『なぜ、人は神を求めるのか』より引用
  • 晴久を指導したのは、前述した根本宏という人物である。その造詣の深さから国士舘大学教授へと要請されたにもかかわらず辞退し、ひたすら大道の泰斗への道を歩みつづけていた根本は、晴久に対し、すべての期待とエネルギーを注ぎ込み、最後に次のように告げた。
    「もう私からあなたに教えるものは何もない。あなたは、『任天の導師』となる人にちがいない」
    「任天の導師」とは、天がすべてを任す人間界、天上界ふたつながらの指導者という意味である。
    この間、わずか一年足らずだったという。
    思うに、一〇年の晴久の真剣な下積みの修行があったからこそ、ここでの一年の研鑽の密度は、常人の域をはるかに超えたものになったのであろう。

※文中の名称は、「ワールドメイト」「深見東州(半田晴久)」に統一しております。

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